和銅の道(廃補陀洛寺跡・丁石)

伊賀市西高倉にある高倉神社から諏訪に上がる道沿いにはその昔、補陀洛寺がありました。高倉神社の天正二年の棟札に「補陀洛寺・奥坊好円・新坊祐清」などの名前がみえ、高倉神社を管掌していた神宮司の一寺であったと推測されています。補陀洛寺跡の基石から始まり、三丁、四丁、五丁と道沿いに置かれています。今回は高倉神社から廃補陀洛寺跡までの道のりを紹介いたします。

高倉神社に車を置いて、出発!
一の鳥居のところにはとっても大きな木がありました。
ほどなく歩くと「九丁石」がありました。
車道を離れて旧道を歩いていくと「八丁石」がありました。
しばらく歩くと「七丁石」が獣害対策用の織の中に佇んでいました。
ここからしばらく歩くと車道に出ます。
司馬遼太郎さんの紀行文集「街道をゆく」に登場する炭小屋の跡がありました。
そのまま道なりに進み、旧道を歩きます。
しばらく、旧道を歩くと「五丁石」がありました。
そして大きな「四丁石」がありました。
「補陀落滝」は「那智不動・首落の滝」などの呼び名があり、源義経がこの滝の名前を忌、御斎峠越えを避けたと源平盛衰記に記されています。
滝からしばらく歩くと「三丁石」がありました。
この近くには五八寸伝承地(つちのこ伝説)がありました。
お堂のようなところは「水上地蔵」といってここにある地蔵尊の多くは昭和28年8月15日の山津波に流されていたのを一ヶ所に集めここにお祀りされています。
またここは補陀洛寺山門があったところで町石墓石もここにありましたが、寺跡に移築されています。
さらに、坂道をのぼること数分、やっと補陀洛寺跡の入り口まで到着、あと少しです。
今は杉木立になっていますが、ここ一体が補陀洛寺があった場所だそうです。
ここにもありました。町石や石仏などは山津波で流されてしまったものが多くあり、まだ見つかっていないものもあるそうです。


※2019年10月6日いがぶら「和銅の道、日本最古の町石巡り」にて
※車の通行にはくれぐれもお気をつけてください。

伊賀市にある石造物

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