
江戸に残っていた組紐の技術・技法を明治三十五年、初代廣澤徳三郎が習得し、伊賀の地に持ち帰り開業したのが伊賀組紐です。昭和51年に経済産業大臣が定める「伝統的工芸品」に指定されました。美しい帯締めやネクタイ・バック、伊賀忍者とコラボレーションしたキーホルダーなど、お土産としても喜ばれています。


組みひもの歴史
【南北朝時代末期】
伊賀で発祥したと言われている観世能(かんぜのう)の観阿弥(かんあみ)の衣装や面などに組紐が用いられる。
【戦国時代末期】
「下げ緒七術」に使われた下げ緒の紐として、忍者に使用される。
(「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」第13巻より)
【慶長13年(1608年)以降】
藤堂高虎の伊賀入国とともに武士の城下町での居住が始まり、武具の需供体制が確立される。
藤堂藩よろい師筒井小市郎などにより、甲冑の縅用(おどしよう)としての組紐も盛んにつくられた。
この頃、組紐が産業として基盤を整えるようになる。
【明治の廃刀令(1876年)以後】
武家社会制度の崩壊により、武具・装具類を中心とした産業としての組紐は衰微する。
技法・技術は、よろい師の筒井景春、筒井猪久蔵たちにより、天神祭の楼車の模型や人形などに残された。
【明治35年(1902年)】
廣澤徳三郎氏が東京から組紐の技術を習得し、故郷の伊賀市上林で江戸組紐の糸組工場を設立する。
帯締め・羽織紐等に活用するなどをして、江戸組紐の技術を伊賀に伝え再び開花させる。

以後、再び伊賀の風土に組紐技術がよみがえり、伊賀が組紐の産地として大きく発展しました。
特に手で組みあげる手組紐は、全国生産額の90%を占めるまでになりました。

全国に出回る多くの帯締め・羽織紐がこの伊賀で製造されています。
長年受け継がれてきた組みひもの技法を使って、新たな試みに挑戦しています。

2月中旬から開催される「伊賀上野 城下町のおひなさん」にも、組みひもを用いたひな人形を展示し、組みひもの新たな可能性を探求しています。
▶城下町のおひなさんについては、『伊賀上野 城下町のおひなさん』をご覧ください。