伊賀焼

奈良時代から始まった歴史ある「伊賀焼」は、野性味と自然美が特徴的であり、伊賀國を治めていた筒井定次や藤堂高虎が茶人であった事から、茶の湯のセンスや心遣いも巧みに取り入れられています。

昭和57年(1982)11月1日に、国の伝統工芸品に指定されました。

伊賀焼は元々、約1200年前(天平年間729〜749)に農民が農業用の種壷や生活雑器を焼いていた事が始まりとされ、奈良時代には伊勢の皇大神宮に献上した記録もあります。
また、室町時代末期に活躍した太朗太夫・次郎太夫(戦国時代の陶工)が、享禄の頃(1528-1532)に丸柱で伊賀焼を再興したといわれ、「伊賀焼の創始者」とも云われています。

桃山時代に侘び茶が大成されると伊賀焼の持つ風情が千利休ら茶人に大変好まれ、大名間で献上品として利用されるほど珍重されていました。
しかし、寛文9年(1669)藤堂家三代・高久の時に原料である白土山の陶土の濫堀防止のため「御留山の制」が設けられ、陶工は信楽へ去り伊賀焼は徐々に衰退していきました。

その後、江戸時代中期にはいると、京都や瀬戸の陶工を招き釉薬の技術を学び、日用雑器が作られ伊賀焼は復興を遂げました。
この時期を「再興伊賀」と呼びます。「再興伊賀」以降は茶陶はほとんど焼かれなくなる一方、行平鍋や土鍋などの耐熱厨房食器や日用雑器が中心となっていきました。

筒井伊賀

[筒井伊賀(古伊賀)]
伊賀の国主となった筒井定次が阿山の槇山窯にて茶の湯に用いるための茶壷、茶入、花入、水差などの茶器を焼きはじめたもの。
筒井定次は、千利休の高弟で安土桃山時代に「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした古田織部の弟子として茶道を学んだそうです。

[遠州伊賀]
江戸時代になると、藤堂高虎の娘婿で大名茶人・小堀遠州の指導により焼かれたもので、筒井伊賀とは対照的に、あかぬけて洒落た厚さの薄い茶器である。

[藤堂伊賀(古伊賀)]
寛永(1624〜1644)のころ、藩主藤堂高次が京都から陶工を招き、茶陶を焼かせたもので、茶器の中でも特に水差が多い。

別名「七度焼」といわれ、高温で何度も焼成することによって自然と青ガラス質のビードロ釉と呼ばれるものができ、その自然美が「侘び」「寂」となり、特に茶陶においては右に出るものはないと高く評価され、他の追随を許さない伊賀焼。
その伊賀焼には、300万年〜400万年前に堆積した古琵琶湖層といわれる地層で、【蛙目(がえろめ)粘土】と【木節(きぶし)粘土】という、どちらも耐火度が高い特徴を持つ「伊賀陶土」を使用します。
(※伊賀焼に使用する陶土は【青岳蛙目粘土、島ヶ原蛙目粘土および丸柱粘土】または、 これらと同等の材質を有するものとすることが定められています。)

古伊賀は「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれるように、水差や花生けは耳を持つものが多く、代表するものとして『破袋水差』や『耳付花入』などがあります。
また、「織部好み」と呼ばれる歪みの激しい造形に自然柚、焦げなどが見られる《破調の美》が特徴とされます。


伊賀焼伝統産業会館

伊賀焼伝統産業会館

[住 所]伊賀市丸柱169-2
[電 話]0595-44-1701
[開館時間]9:00~17:00
[休館日] 月曜日(月曜日が祝日の週は火曜日)
     12月28日~1月4日
[入館料] 無料
[Web] 伊賀焼振興協同組合HP

伊賀焼絵付け体験・手びねり作陶体験・電動ろくろ作陶体験あります。

伊賀焼の窯元さんについては『伊賀焼振興協同組合HP 窯元の紹介ページ』をご覧ください。


長谷園16連登り窯

長谷園16連登り窯

※国指定登録有形文化財

天保3年(1832)の創業時より昭和40年代(1970頃)まで稼働していた16連登り窯は、この大きさで現存する登り窯としては日本ではこれだけだと言われています。


伊賀焼陶器まつり

長谷園窯出し市


名産・物産