初瀬街道

初瀬街道は初瀬から名張を経て七見峠を越え、阿保に入り伊勢地を経て青山峠を越え、津市から松阪市六軒に至る約十四里十七町の街道です。
(初瀬は、今の奈良県桜井市長谷の辺りのことをさしています)

松阪市六軒からは、伊勢参宮街道に合流し難波・大和と伊勢を結ぶ重要な街道でした。
阿保や青山峠はその地名から「阿保越」「青山越」と親しまれていました。
「青山越」は道が険しく三里(約12㎞)もあった為、旅の難所であったようです。
電車も車もない時代、初瀬から伊勢まで歩いて5日から6日かかりました。
そのため、道中には旅籠や茶店が沢山あり阿保や伊勢地などは宿場町として賑わっていました。

街道の歴史は古く、古代の初瀬街道は当時都のあった飛鳥地方から伊勢神宮に至る道として早くから開かれていました。
壬申の乱の際に、大海人皇子(後の天武天皇)が通った道でもあります。
他にも伊勢斎王がその任務を終えて京都へ帰還する際に仮宮として泊まった阿保頓宮があり、斎王の上路でした。
江戸時代当時は長谷の観音さんや伊勢神宮にお参りする旅が大流行していたので、伊勢地や阿保の宿場は大繁盛しました。
特に青山峠の西麓に位置した伊勢地には20軒程の旅籠が軒を並べ、毎夜毎夜何百人もの宿泊客で賑わっていました。

廃業しているものの伊勢地には、今も大きな旅籠の建物が残されており明治末期の建物で間口十間、総二階という豪勢な造りです。
今も当時の屋号で呼び合う家が多く宿場町だった頃の面影を感じることができます。
宿場の中央には「文政11(1828)年2月」と彫られた常夜燈が当時のまま建っています。

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江戸時代、村の仲間で旅行団体(講)をつくり年に一度代表者がお伊勢参りをしていました。
その講ごとに定宿を契約し、泊まる宿がわかる目印につくられたのが講看板でした。
講看板は常時、宿屋で保管されていて、事前に手紙で連絡しておくと到着予定日に宿屋の軒下にあげられ旅人が自分の泊まる宿屋を知る目印になりました。

阿保の旅籠「たわらや」には、往時の賑わいを物語る講看板が100枚近く保存され、今は跡地に建つ初瀬街道交流の館「たわらや」に講看板が展示されています。
また、青山峠から七見峠までの青山地区には、旅人の道案内をした道標や、旅の安全を願い旅人が迷わないように一晩中灯りを灯していた常夜燈が今も沢山残っています。

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江戸時代中期の国学者・本居宣長が明和9(1772)年43歳の春、吉野へ友人5人と10日間の花見旅行に出かけた際の道中日記「菅笠(すががさ)日記」に松阪を出発して初瀬街道を西に向かい、雨の中「阿保越え」をし「伊勢地宿」で一泊し、二日目伊勢地から阿保川沿いに大村神社に寄り阿保の七つの村を見渡せることからその名がついたと云われる「七見峠」を越えて名張に向かいました。その記念碑が街道沿いに建っています。


初瀬街道交流館「たわらや」・講看板

菅笠日記の碑

初瀬街道まつり


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