千方窟(ちかたくつ)

 

千方窟は、木津川支流の前深瀬川を10㎞ほど上がったところの山奥にある岩城で、地元では千方将軍と呼ばれる藤原千方の伝説があります。
藤原千方伝説地は、昭和45年8月10日に市の指定史跡に指定されました。
「太平記」によると、平安時代に伊勢と伊賀との国境でとても大きな勢力をもっていた豪族・藤原千方が四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えて、朝廷に反乱を起こした際にこの岩城に立てこもり朝廷軍と激しい攻防戦をくりひろげたとされる地です。

別名【四つ鬼の窟】とも呼ばれています。
並み外れた能力を持つ四鬼と、四鬼を自由に扱えた千方将軍の討伐に派遣された右大将・紀朝雄(きのともお)が

《草も木も 我が大君の国なれば いづくか鬼の 棲なるべし》

草も木も、この世に生を享けるものはすべて天皇の治に従う。
鬼といえども、天皇に背いてこの国に住むことはできない

という和歌を送った。
この歌により、鬼たちは、天皇に背く身であることを恥じ、ここが己の住むべき国ではないと悟り、本物の鬼になって奈落の底に堕ちていった。
その穴の跡は今も4つ残っており4つとも風が吹き抜け、どこかでつながっているそうです。

千方将軍もその後、紀朝雄に首を落とされ絶命したといいます。
この時の将軍の首は川の流れに乗って流れて行くと思われましたが、「千方ともあろう者が、流れるままにはなりはしない」と、突然流れを遡って川上の若宮八幡宮近くで止まったことから、若宮八幡宮に将軍が祀られる事になったといいます。

なお、この地方では節分に「鬼は外」とは言いません。
鬼は、人と神との橋渡しをする種族であると考えられていたためです。
また、四鬼と千方将軍の並外れた神通力は、まさしく忍者のはしりだったとされ、千方窟忍者発祥の地とも言われています。


四鬼(よんき)

四鬼【よんき】とは、人並み外れた修行を重ねた剛勇の持ち主を指し、並外れた能力をもち忍術を使ったと考えられ、伊賀忍者の始まりとも云われています。

金鬼【きんき】・・・射ても矢の立たない屈強な身体を持つ

風鬼【ふうき】・・・大風を吹かせて敵城を吹き飛ばす

水鬼【すいき】・・・いかなる場所でも洪水を起こして敵兵を溺れさせる

隠形鬼【おんぎょうき】・・・その姿を隠し、気配を消して敵を惑わし、突然襲い掛かる(怨京鬼と書く事もある)


千方明神(ちかたみょうじん)

藤原千方は、千方明神として宝暦10年(1760)建立の石神で、若宮明神(高尾 若宮神社)と共に祀られています。
祠の扉の左側には『若宮明神』、右側には『千方明神』と刻まれています。


大門跡(だいもんあと)

千方将軍の城・千方城郭の正門跡といわれ、石柱が折損したといわれています。
西には、数百メートルの大通りがあったそうです。

大門跡のすぐ近くには城の厠跡も残っています。


桜井戸跡(さくらいどあと)

千方城郭の井戸跡地といわれ、現在も地下に井戸があるといわれています。
井戸跡の上には見張り台跡があり、遠く名張市のほうまで見渡せたといいます。


桜井戸跡(さくらいどあと)

千方城郭の風穴といわれ非常用の脱出口であったといわれます。
なお、この風穴はここから約4㎞離れた、名張市滝之原の赤岩尾神社の風穴に通じているとの説があります。

また春には高尾地区市民センターの方々が開催する「千方ウォークと餅まき」があります。
一人では巡りにくい山道も解説付きでみんなと巡ります。
そのあとは四鬼と千方将軍に扮した地域の方々による餅まきを楽しむことができます。
ぜひ、ご参加ください。


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