愛子ちゃんの感想文



秋から冬の景色になりつつある山々をぬけて。
電車から降り立った伊賀上野は、くっきりと晴れていました。

青空をバックにお城も、俳聖殿もよく映えていて、
冷たくもきりりとする冬のはじまりの空気が気持ちいい。
 
松尾芭蕉は、教科書に載っているような歴史上の人物だけど、
この街ではまるで現在この地域に住んでいる人みたいに、
皆さんは「芭蕉さん」って呼んでおられる。

尊びながらも、すごく近くに感じておられることが伝わってきました。
 
伊賀上野には、芭蕉さんをしのぶことのできる場所や建物が、
今もまだ街のなかに溶け込むようにありました。

私が芭蕉さんにチューニングをあわせると、彼方此方から、
芭蕉さんにまつわるいろいろがたちあがってきます。
そういう余地を残してくれているのが伊賀上野という街なのですね。

昔のおもかげがまったく残っていない街になっていたならば、
芭蕉さんをここまで近くには感じられなかったかもしれません。
 
いごこちよくてずっと長居したくなるようなお店。
店主のお話をもっと聞いていたいと思うお店。
こころゆくまで味わいつくしたいお店が点在している中を、
芭蕉さんの姿を思い馳せながら、歩きました。
 
芭蕉さんの月見の献立を参考にしてつくられたおいしいお昼ごはんのお弁当。
当時の献立の中に里いもということばを見つけ、本当に当たり前だけど、
「里いも=昔も今もある」って頭に浮かびました。

芭蕉さんは、現代にいる私が見当もつかないようなものを食べていなくて、
今も里いもはあるし、里いもは野菜だとわかる。
 
俳句をつくりつづけた芭蕉さん。
なぜ芭蕉さんにこんなに親しみを持てるのだろうと思ったけれど、
やはり残してくれているからじゃないかな。

現代に生きる私達も共感できるような思いや、景色や、そのえもいわれぬ余韻。
それらをことばにして、ぎゅっと俳句というかたちで凝縮させて、真空パックで。

芭蕉さんに共感できるのは、芭蕉さんが出会ったその瞬間を、
俳句というかたちを通して、一瞬で受け取ることができるから。
それを今もなぞることができるから。
 
里いもは里いものまま、変わらない。
それと同じで、俳句にちりばめられている心の動きや心に残る景色も、
時代をこえてそう変わるものでもない。
そういうことが、とても心に響いてきました。
 
俳句として、読み物として、かきとめられていなかったら、
芭蕉さんを想いながらこんなふうにたどることはできなかったはず。

後世にこんなふうに芭蕉さんの世界に共感しようとする人がいるだろうことは、
芭蕉さんにとっては想像できることだったのかもしれない。

時代をこえて伝わる言葉の力をもちろん知った上で、
俳句を創りつづけていたのかもしれないな。
 
くいな笛は、そっと息をふきこむと「ほぅほぅ」とあたたかい音。
芭蕉さんも、あちこちの旅の途中で、こんなふうに一息ついて、吹いていたのかな。

あっという間に日が沈むまでのひととき、やわらかい冬の光が届く蓑虫庵で、
そんなふうに思っていました。
 
冬晴れの 空気ぬくめて くいな笛
 
伊賀上野に訪れた私は、これからは「芭蕉さん」といくぶん親しみをこめて
呼ばずにはおれない気がします。

 
愛子